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「JA共済」小・中学生
作文コンクール

2021年度 第57回 受賞作品

福岡県知事賞

「ごめんね母さん」

私立  中村学園三陽中学校2年香取 英次朗

 「ちょっと話したいことがあるんだ。」
二年前から病気と闘っている母が、病院から帰ってきて言った言葉だった。母は何気なく私の真向かいに座った。私と兄はさっきまで英単語を書いていた手を休め、耳を傾けた。普段私たちに明るい顔しか見せない母が、深刻そうな顔をしてゆっくりと口を開いた。
「お母さんもう短いかもしれない。」
さっきまでストーブで温まっていた部屋が、一瞬にして凍りつく。まぶたの奥から熱いものがじわじわと込み上げてきた。私はなぜかそれを誰にも見せたくなかったので、必死にこらえた。沈んだ空気が嫌だったのか、母は私の隣にくつ下を置いて、いつもの調子に戻って話を始めた。
「新しいくつ下買ってきたよ。」
「……。」
ここでしゃべるとのどがつまって、声が震えていることがばれてしまう。沈黙が部屋全体を包んだとき、母が私の肩を優しくなでた。鼻の奥がツーンとなり、我慢していた涙が弾け飛んだ。針のように細く鋭い悲しみが、私の胸を何度も刺し続けた。母は私の肩をなで終わるとポンと軽く背中を叩き、私の隣の椅子にゆっくり座り直した。同時に私は素早く立ち上がり、母が座っている椅子の後ろにあるドアを押し開けた。ダンっと大きな音を立てても、私は知らん顔で、急いで二階の自分の部屋に向かった。階段を駆け上がる足音は、家中に響いていたことだろう。私はそのまま部屋のベッドに飛びのった。顔を枕に沈め、大きな声を出しても、思いっきり拳をベッドに叩きつけても、悲しみは出ていくどころか私を追いつめてくるばかりだった。
 次の日の朝、一階のリビングへナメクジのようにのろのろと降りていった。金属のドアノブに手をかけガチャリと開けると、予想に反していつもの光景が広がっていた。キッチンで私の弁当を作っている母。椅子に座りお茶を飲んでいる父。窓から入る明るい朝の光。何もかもがいつもどおりだった。「なんだ、そんなに悩まなくてもいいんだ。いつもどおりでいいんだ。」と私は昨夜の自分の気持ちを飲み込んだ。
 しばらくたって、母が歩くことがきつくなってきても、座りながらご飯を作っていても、いつもどおりでいいのだと自分に言い聞かせ、普段どおりの自分でいた。放り投げたかばん、脱ぎっぱなしの服、朝寝坊。私は、毎日のように母を怒らせていた。そして、母を怒らせるたびに兄、姉、父から
「後悔するぞ。」
という恐ろしい助言を浴びせられるのだった。
 母を怒らせてしまったある日の夜、明日謝ろうと思いながら眠りにつこうとしたとき、急に下腹部が締めつけられ、腹の中から何か這い出てくるような激しい吐き気に襲われた。それは腹の中でずっとうごめいていて、私は眠れず、きつい朝を迎えた。その日の朝、いつもの「いってらっしゃい」という母の言葉を聞くことはなかった。母はその日からケア病棟に入院することが決まった。
 「明日、お母さんのお見舞いに行こう。」
学校から帰宅した後、陽気に父に提案したが、返ってきた言葉は私を限りなく不満にさせた。
「それがね、新型コロナウイルスのせいでお見舞いに行けんっちゃん。」
私の感情は暗い部屋で、一人ぼっちになった。
 「お母さんに明日会いに行けるよ。」
しばらくたったある日、父が私の部屋に入ってきて発した言葉だった。その言葉は、一瞬だけ私の心を歓喜で溢れかえらせたが、また一瞬でそれは深く沈んでいった。私の考えが当たっていれば……。私は父に聞く。
「なんで?」
「……そりゃ、お母さんがもう危ない状況やけんやろ!」
語気の荒い、父のいらいらした声が耳の奥に残った。母に会える嬉しさと、ぬぐいきれない不安が私の心を交互に駆け巡った。
 病院へ着くと、密を避けるために十五分ずつ二つのグループに分けて面会することになった。兄と父、姉と私に別れ、姉と私が先に面会することに決まった。姉と病室に入ると、ベッドに横たわるやせた母がいた。私はベッドの横にある椅子に座り、母の手を握った。母の手の温もりを感じた途端、私の知らない感情が体の内側から湧き出てきた。それは以前、私の腹の中でうごめいていたものとは全く異なるものであった。私は信じられないくらいの涙をこぼした。
話したいことは山ほどあったはずなのに、何も話すことができなかった。十五分間、私は母の手をずっと握ったまま泣いていた。
 翌日、母は亡くなった。病室に入ると、ベッドの上で仰向けになり、目を瞑る母の手を姉と父が握っていた。私は父の涙に震える声を初めて聞いた。母を怒らせた日々が、私をものすごい勢いで押しつぶした。
「後悔するぞ。」
わかっていたんだ。本当はよくわかっていたんだ。私はただ母さんに甘えていたかっただけなんだ。
 いつかきっとこの現状を平気で振り返る日がやってくるだろう。だが、私はその日がやってくるのが死ぬほど恐い。

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