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「JA共済」小・中学生
作文コンクール

2019年度 第55回 受賞作品

福岡県知事賞

努力するということ

須恵町立  須恵中学校1年淵脇 優希

 「やった!泳げた。」
「やったな。」
父と僕が同時に叫んだ。生まれて初めて、僕が二十五メートルを泳げるようになった瞬間だった。
 小さい頃から、僕は水泳が苦手だった。手と足の動かし方がよく分からず、息継ぎもうまくできなかった。小学校の時は、水泳の時間は一年生から六年生までずっと一番下のグループで、十メートル泳げればいいほうだった。
 中学校に入学してからも、それは変わらなかった。夏になってプールでの授業が始まったが、思ったとおりうまく泳げなかったので、早く秋が来てプールが終わってくれないかな、などと考えていた。しかし、それは甘い考えだった。夏休みに入る前に夏休みの課題一覧表が配られたのだが、その中に「二十五メートル泳げるようになっておくこと」という課題が書いてあったのだ。しかもクロールで。
 僕はすごく慌てた。十メートルしか泳げないのに、一か月で二十五メートルも泳げるようになるわけがない。泳げるようになっていなければ、課題をこなしてこなかったということになってしまう。どうしようと悩んだ末に、母に相談した。
 そうしたら母も同じように慌てた。
「どうしよう。」
としきりに言っていたが、結局は練習をするしかないと思ったようで、練習ができるようなプールはないのかと調べ始めた。しかし、なかなか良い練習場所が見つからなかった。よくあるレジャープールは人がたくさんいてとても泳げるような場所ではないし、公営のプールは競泳用の上級コースだけが設置してあるような感じだった。かといって、優雅なホテルのプールでバシャバシャと練習するわけにもいかない。
 母がインターネットを使って必死に調べて、隣の粕屋町の粕屋ドームのプールに自由遊泳のコースが設置してあることが分かった。自由に泳いだり立ち止まったりしていいコースらしい。やっと練習する場所が決まった。
 後は父が休みの週末に練習しに行くだけだと思った。しかし、父は
「おれは教えないよ。」
と言いだしたのだ。
「プールに入るのはめんどうだし、第一、プールキャップ持ってないし。」
公営のプールは、プールキャップを被るのが必須だ。何度頼んでも駄目だった。それで母は、自分が教えると言いだした。自分も泳げないのに。そう思いながら、泳ぎ方の動画を母と一緒に見て事前に体を動かす練習をし、土曜日に練習に行った。
 母と一緒にプールに入り練習を始めた。父は見学席だ。果たして、カナヅチに教えてもらって本当に泳げるようになるのだろうかと不安だった。周りを見ると、お父さんと練習に来ている子供が結構いる。みんな小学校低学年くらいの小さな子たちなので少し恥ずかしくなった。考えないようにして、一生懸命練習した。
 動画で見たとおりに手と足を動かす。頭では先に進めるはずなのにうまくいかない。どういう訳か、右に右に進んでしまう。プールの監視員の方に、レーンの仕切りの浮きには触わらないでときつく注意をされてしまった。
 なぜなのか考えた。右側の手足が使えてないのではないのかと考えて、右手に力を入れて泳いだ。十五メートルくらいは泳げるようになった。真っ直ぐ泳げるようにはなったが、なぜか息継ぎができない。母が、
「息継ぎの仕方がおかしいよ。」
と言い出した。
「上に顔を上げたら駄目だよ、横に上げなきゃ。」
でも、何度やってもできない。この日は、ここで練習が終了してしまった。やはりカナヅチが教えるのは無理だったのだ。
 母が父を無理矢理スポーツ店に連れて行き、プールキャップを買わせてしまった。かっこいいプールキャップを買った父は、俄然やる気になった。
「よし、来週は一緒に練習するぞ。」
父が形から入る人だということを、母はよく分かっている。
 次の週、父と一緒に練習に行った。前回できなかった息継ぎの練習をする。父の教えるとおりにやってみるがうまくいかない。やめたいと何度も思った。苦しくて苦しくてもうやめると思ったとき、
「できたじゃないか。」
と父がそう言った。気が付かなかったが、息継ぎがうまくできていたようだ。
 それからは、どんどん上達していった。泳ぐ距離もどんどん伸びた。そして、とうとう二十五メートル泳げたとき、僕と父は大喜びした。本当にうれしかった。小さなころからのコンプレックスだった泳ぎを克服できたのだ。全てのことがうまくいくような気がした。努力することは無駄ではない。そう思えた出来事だった。
 「来年は平泳ぎに挑戦しよう。」
父とそう話している。

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