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「JA共済」小・中学生
作文コンクール

2020年度 第56回 受賞作品

日本農業新聞賞

家族の存在

北九州市立  熊西中学校1年梶原 寧々

 家族とは何なのか。どういう存在なのか。そう考えたことはあるだろうか。人それぞれ考えはちがうと思う。絶対になくてはならない存在。なんでも相談できる存在。いっしょに楽しく笑い合える存在。ずっといっしょにいたくなる、そんな存在。私の心にはたくさんの考えが次々と浮かぶ。すぐには答えがでてこない。だって私の中では、家族という存在が大きすぎるからだ。
 私は、幼い頃に両親の離婚を経験している。だからこそ、家族というものの存在がどれだけ大切かがよくわかる。
 私が小学二年生になろうとしていた冬。私は母に、話があるからと呼び出された。少しドキドキした。楽しい話だと思っていた。家を引っ越すとか、また新しい兄弟ができるとか。いよいよ報告のときだ。私はとにかくドキドキした。そんな中、母から出た言葉に驚きを隠せず思わず言葉を失った。
「今から大切なお話をします。最後まで聞いてね。これからパパとあなたたちは離れて暮らしていくことになりました。だから、あなたたちはパパとはちがう遠い所にお引っ越しするようになりました。」
 私の目からポロポロと涙があふれ出た。ふいてもふいても止まらなかった。となりで父も妹も泣いている。よく見ると母も涙ぐんでいた。私はそのとき、生まれて初めてとてつもなく深い悲しみというものを体験した。その後、私はトイレにこもり、二時間ほど泣いていた。母が「出ておいで。」と言っても出たくなかった。それほど悲しかった。何とか自分の気持ちを幼いなりに整理し、トイレを出てすぐに母のところへ駆け寄った。母が抱きしめて「ごめんね。」と口にした。とても重い一言だった。その後、父とはあまりそういう会話もせず、今までどおりの生活を送った。でも、今までよりも濃い時間だった。
 いよいよ引っ越しのとき。何をしたとか誰がこう言ったとか、そのときの記憶は定かではないがめちゃくちゃ悲しく寂しかったことだけは鮮明に覚えている。
 しかし、車を走らせること一時間で新しい家についたときの私は、寂しさなんかよりもこれから先のことを考えてとてもワクワクしていたのだ。家の中は新しい家具が置かれ、美しく整えられていたからだ。後から聞くと、母が私たちを寝かせた後、夜中に一時間かけてここまで来て準備していたらしい。そんな母の心づかいに励まされ、女子三人での楽しい新生活が始まると思っていた。
 しかし、引っ越しが終わり二、三か月たった頃から少しずつ母の仕事の帰りが遅くなっていった。生まれて初めてのお留守番。とにかく怖かった。家から母の職場までは片道四、五十分かかる。ある日からはもっと帰りが遅くなり、ご飯も自分たちで食べるという生活が続いた。正直とてもつらくて寂しい毎日だった。そんな日が続いたせいか、妹は体調をくずし、母の負担がますます大きくなってしまった。そのとき私は母を少しでも助けようと決心した。できるだけ母が帰ってくるまで起きてみたり、たまった洗たく物をたたんでみたり、洗い物をしてキッチン回りをキレイにしてみたり。何より私が欠かさずやっていたことは手紙を書くことだった。これには今日あった出来事などを書き、最後に「おつかれさま。」の一文をそえていた。母に少しでも感謝の気持ちを伝えたくて手紙を書いていた。逆に言えば幼い私にできる精一杯のことがそんなことだったのだ。でも、私たち姉妹は少しずつ成長し次第に生活にも慣れてきた。母は学校行事にも進んで参加してくれるようになり、周りの友達にも「お母さんカッコイイね。」「いいな。」と言われるようになった。私はとてもうれしかった。
 小学校四年生のとき、二分の一成人式で母への感謝を伝えた。いざ文を考えるとなると、色々なことを伝えたくてたくさん悩んだ。でも、なにより家庭を全力で支えてくれていることに感謝を伝えたかった。今までを振り返ると母の苦労を改めて知ることもできた。
 家族という一つの大きな存在。私は両親の離婚を機に、一人の家族がどれだけ大きな存在なのかを再確認することができた。母の今までの努力や苦労にも気が付けた。悲しいことではあったが、その分他に大きなものを得られたような気がする。まだまだ私が大人になるまでも、なってからもきっとたくさんの迷惑をかけてしまうと思う。しかし、いつかそれをこえるような母親への「恩返し」をしたいと思っている。そうはいっても今の私にとって、母は口では言い表せぬほど偉大で、どんなことをすれば恩が返せるのか想像もできない。
 家族とは何なのか。もちろん人によってちがうが、同じようなところだってきっとある。これからも感謝の気持ちを忘れず家族というすばらしいものを築きあげていきたい。

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