2019年度 第55回 受賞作品
日本農業新聞賞
努力が作るあたり前
久留米市立 田主丸中学校3年竹上 遥菜
米の収穫を前に、近所の田んぼを見た祖父はつぶやいた。
「今年の稲は倒れっしもとる。」
祖父の言葉通り、今年は台風による稲の被害が大きかった。それに加え、ウンカが大量に発生したため実が入らなくなり、収穫量が例年に比べ激減した。祖父の言葉を聞いて、米を作ることの難しさ、米を大量に生産し、収穫することの大変さを改めて認識した。
私の通っていた小学校では、総合学習の一環でもち米作りを行っている。
小学校でのもち米作りは、苗箱という米の苗を育てるための箱に土を入れることから始まった。土を均一の厚さに入れ、種をまき、その上からまた土をかぶせる。そして、出来上がったものに毎日欠かさず水をやり、約一ヶ月間大切に育てる。苗が立派に育ったら、次は田植えをする。田植えをするためには、田んぼをすいたり、肥料を入れたり、水を張ったり、代かきをしたり……などたくさんの準備が必要だ。私たちの代わりにJA青年部の方々がやってくださった。そうして、いよいよ田植えをすることができる。小学校の全校生徒で一つ一つ手作業で植えていった。きれいに植えることがとても難しかったことを今でも覚えている。田植えが終わった後は除草剤を入れたり、水管理、ジャンボタニシの駆除をしたり……など気の抜けない作業が続く。ジャンボタニシは若い苗を食べるので苗がなくなってしまう。だから、水の管理や駆除はとても大切だ。私は、ジャンボタニシが大量に発生するようになったのは、食べるために輸入したジャンボタニシが思いの外おいしくなく、処分に困った人が川に捨てたことが原因だと聞いた。その人の「これくらいは大丈夫だろう」という安易な考えが、生態系を壊してしまうという深刻な事態に陥らせてしまうということを私たちは覚えておかなくてはならないと思う。
そして、稲の株が大きくなったら、田んぼの水を抜き、消毒を行う。これらの作業もJA青年部の方々がやってくださった。こうして、たくさんの方々の協力のおかげで、稲がたわわに実った。そして、稲の穂がたれて、田んぼが黄金色に染まった頃に稲刈りを行った。稲刈りも田植えと同様に小学校の全校生徒で手作業で行った。一株を刈りとるにも思いのほか力が必要だったので、下級生の子たちはとても大変そうだった。また、初めて稲刈りをしたときは、三、四本だった苗が二、三十本もの稲に成長しているのを見て、「お米の成長ってすごいなぁ」と驚いた。こうやって、みんなで刈りとった稲はその後、もみすりや精米などの工程を経て、お店で売られているような米になる。
私の通っていた小学校では、精米されたもち米を使ってもちつきをしたり、自分たちで袋詰め、ラベルはりをして地域の方々に売ったり、なかなか体験できないようなことを体験することができた。特に、もちつきは、自分たちの育てた米を使っていることもあり、出来上がったもちは、今まで食べたもちの中で一番のおいしさだった。そう思ったのは私だけではないようで、みんなで「おいしいね」と言いあいながら食べたのを今でも覚えている。
私たちの生活に、あたり前のように存在している米。今までで一度も米を口にしたことがないという人はきっといないだろう。しかし、毎日米を口にできるということは決してあたり前なことではない。一から米作りを体験したことで、そう強く思った。私たちは、米のありがたさを忘れてはいけないのだ。なぜならば、米は、農家の方々のたくさんの努力で作られているからだ。いわば「努力の賜物」なのである。私は小さい頃、母に
「ご飯を粗末にするとバチがあたるよ。」
と言われたことがある。この言葉や、感謝の気持ちを忘れずに、これからも米を食べていきたい。
稲作が日本に広まった弥生時代から今までの約二千四百年間、私たちの祖先は稲作の技術をとだえさせることなく、今へとつないでくれた。私の祖父も稲作を次の世代へとつないでいっている一人だ。そんな祖父を、私はとても誇りに思う。そして、私たちは、今までつないでもらった稲作の技術を未来へとつないでいかなくてはならない。今年は、受験生ということもあり、手伝いができなかった。だから来年は、今年できなかった分、しっかり、積極的に手伝いをしようと思う。また、手伝い以外にも自分にできることがあったらやっていきたい。遠い未来でも、米の存在は「努力が作るあたり前」であってほしいから。