2019年度 第55回 受賞作品
日本農業新聞賞
一食にこめられた想い
福岡市立 玉川小学校6年東 佑真
「ご飯よ。早く起きんね。」
と、朝早くから母のかん高い声が家中にひびく。その声を聞くたびに、「もうちょっとねさせてよ。」と思ってしまう。
食たくにつくと、朝食が用意されている。ご飯、パン、肉、魚、野菜など日替わりのメニューだ。母は朝食をつくり終わると、自分の身支度をばたばたとすませ、ぼくたちと一緒に朝食をとる。これが母の日課だ。
食たくに並んだおかずを見ては、「えー、今日はこれなの。」「やったー。ぼくの好物だ。」などと一喜一憂してしまう。が、そんなことを口に出そうものなら大目玉をくらってしまうので、口に出すことはない。
わが家は、父の帰りがおそく、夕食の準備をするのは、母。母も仕事を終えてつかれているはずだが、そんなことは、一言も言わず
「何が食べたい。」
と、ぼくたちの食べたい物をたずねてくれる。
そんなぼくが、夕食を時々つくるようになったのは、五年生になってからだ。五年から始まった家庭科の調理実習がきっかけだ。最初は、ご飯炊きから始まり、次にみそ汁、時々おかずもつくるようになった。ぼくが夕食をつくっている時に、帰ってきた母は、
「いい匂いがする。おいしそうやね。」
と、ぼくの手先をのぞき込み、いそいそと夕食の準備をする。そんな声をかけられると、「次は、もっとおいしいものをつくろう。」という気持ちになる。こうして夕食をつくることが少しずつ増えていった。
メニューを考えるときは、冷ぞう庫をのぞき、何の材料があるかを確認する。そして、タブレットを使って、「みんなは、何が食べたいかな。」と考えながら調べるのだ。ときには、弟たちの世話をしている祖母に、アドバイスをもらいながらつくることもある。
そんなぼくだって、毎日はできず、「面どうだな。」と思うことだってある。毎日仕事をして帰宅する母なら、なおさらのはずだ。それでも朝早くから起床し、しかもぼくたちの健康を考えた食事をつくっていると気づいた。
先日、ふと横にいた母の手の指先を見るとカサカサと、ヒビ割れているのを見つけた。「きっと、冷たい水で料理をしているせいだろう。」と、心に引っかかるものがあった。
今年の正月、おせちづくりに挑戦した。母と一緒に台所に立ち、これまで母がつくっていた伊達巻きをつくった。手際よく行かないぼくを横目に、
「佑真も大きくなったね。」
と、つぶやいた。
今年は、いよいよぼくも中学生。今以上に、時間が少なくなるが、母が家族のために食事にこめた日課をつないでいきたい。今日も、ぼくたちのことを想う母の大きな声が朝早くから聞こえる。