2019年度 第55回 受賞作品
日本農業新聞賞
彼らが教えてくれたこと
北九州市立 熊西中学校1年日髙 鉄心
僕は、小学四、五年生のころ、二匹のアメリカザリガニを飼っていました。当時の夏休みに、親せきの家の近くでつかまえたものです。大人数で田んぼの近くの道を、虫あみを手に歩いていたときの気持ちを今でも思い出せます。そのころの僕にとっては、ザリガニ捕りは初めての経験だったこともあり、道のわきに立って水路をながめるだけでも、とてもわくわくしていました。
一緒に出かけた人数も多かったため、たくさんのアメリカザリガニが捕れました。たらいの中でひしめき合うザリガニも、いつまでも見ていられる気がしていました。
その日、四、五匹のザリガニたちを小さな虫かごに入れてもらい、祖父母の家まで持って帰ることになりました。祖父母の家に着くまでの車内でも、頭にはザリガニのことしかありませんでした。
祖父母の家についてからも、ずっとザリガニの入った水槽を見たり、割ばしで中をつついたりして過ごしました。
そして、自分の家に帰る日に、僕は祖父母の家の水槽からオスとメスを一匹ずつ虫かごに入れて車で家に向かいました。
僕はその車内でも、ひざに乗せた虫かごがとても気になって、なかなか他のことに気が向きませんでした。
それまでにも、学校の授業などでコオロギやカマキリなどの昆虫は飼育していましたが、当時初めて飼育するザリガニは、これまでの生物たち以上に大切にしようと考えていました。
家にアメリカザリガニ二匹がやって来て、さっそく僕は毎朝ザリガニにエサをやるようになりました。また、食べ残しで汚れた水をきれいな水と入れ替える作業もこまめに行うようにしていました。そのころは、今までしてきた昆虫の飼育以上に「命」を預かっているような感覚があったことを覚えています。さらに、虫かごを少し落としてしまったときに、「あ、ごめん」などとたまに声が出たり、エサやりや水の交換のときにザリガニに向かって声をかけたりすることがよくあり、今になってもそのころの自分は自分より小さなそのザリガニを仲間のような存在に感じていたのだと思うことができます。
ザリガニたちを飼育し始めてからしばらくたったとき、メスのザリガニがたくさんの卵を産みました。その日から僕は一層熱心にザリガニの世話や観察を行い、母も、メスの腹部についた卵を見て、「気持ち悪い」、と言いながらも、一緒に観察をしていました。
やがて、卵が少しずつかえり、小さな子どものエビのような見た目になっていき、とてもかわいらしく感じました。
しかし、五十匹近くいる子ザリガニたちの間では共食いが始まってしまい、少しずつ数が減っていきました。僕は、今までに経験がなかったこの出来事に、とても驚き、同時に恐怖も感じました。エサの量を増やしても、子ザリガニの減少を抑えることはできず、二センチほどの大きな個体を別の場所にうつしても、また大きな個体が出てきて、そのうちにたくさんいた子ザリガニはたった二匹ほどになってしまいました。自然の中の池などに比べるととてもせまい水槽の中では、生き残るためにこんな惨いことが行われてしまうことに、とても衝撃を受けました。
そして、最後に残った二匹の子ザリガニも、命を落としたり行方が分からなくなったりしていなくなり、結局は始めにいた大人のザリガニの二匹だけになりました。
そこからだんだん、僕も水の交換やエサやりをする回数が減っていきました。観察もあまりしなくなりました。エサをやろうとかごのふたを開けるたび、ザリガニが少しずつ弱っていくことが分かりました。
やがて、家に約一年ほどいたザリガニたちは、全ていなくなりました。
考えてみれば、この小さな水槽の中でたくさんの命が生まれて、失われていきました。
僕の家で飼っていた二匹のザリガニは、僕に命を預かることの難しさや大変さ、そしてその喜びを教えてくれたような気がします。またその子どもたちも、命の大切さや自然の厳しさをこうして考えさせてくれました。
僕は、ザリガニを飼ったとき以来、学校などで忙しくなり、生き物を飼育していません。これからも、しばらくは生き物を育てたりすることはないと思います。でも、あのときに感じたことや経験は、これからもずっと覚えておきたいと思います。