2017年度 第53回 受賞作品
日本農業新聞賞
私の宝物
久留米市立 田主丸中学校3年江上 由桂
「行って来ます。」と私が言うと、今日も「行ってらっしゃい、気を付けてね。」と祖母が手を振りながら言ってくれる。私は、この手が「交通安全祈願のお守り」のように感じる。現に、私が祖母に見送ってもらった保育園から中学校までの約十二年間、まだ一度も交通事故に遭っていない。
私は、祖母と暮らしている訳ではないのだが、同じ敷地に自分の家と祖母の家が二軒建っているため、幼い頃からずっと行き来しており、祖母と顔を会わせない日はほとんどない。また、父も母も仕事で、私が帰宅する時間には家に居ない。そこで、保育園のお迎えはもちろん、保育園や小学校から帰宅した後、父か母かが帰宅するまでは、祖母の家で祖母と兄と一緒に待っていた。
この約九年間で、私は勉強を教えてもらったり、おやつを作ってもらったり、休みの日には一緒に外出したりと、祖母の手を沢山借りた。でも、逆に私が農作業を手伝ったり、掃除をしたりと、祖母に手を貸すこともあった。とはいえ、やはり手を貸した中で祖母の手を借り、出来るようになったことも多い。中学校に入学してからは、吹奏楽部に入部した私が「楽器を持って帰って来る。」と言うたびに、迎えに来てくれた。私の記憶にないくらい幼いころも、祖母はきっと、私に手を貸してくれたのではないだろうか。
そんな十五年間を過ごしてきた私は、五歳で初めて台所に立ち、憧れの包丁を握ったときも、祖母と一緒だった。そのときは、祖母が畑で丹精込めて育てたジャガイモやニンジンを切って、カレーを作った。それは、祖母が育てた野菜をいつも食べていたときより、何倍も美味しかった。このことから、私は料理の楽しさを知ったと同時に、「やっぱり、お婆ちゃんの育てた野菜が美味しい。」と改めて思った。
こんなに楽しく祖母と過ごしてきた私だが、ケンカも何度となくして、嫌いにもなった。一番驚いたのは、保育園の頃はとても優しかった祖母が、小学校に入学してからは勉強に関してはかなり厳しくなったことだった。さらに、学年が上がるにつれ、厳しさも私の言い返す力も増し、よくケンカをした。しかし、どんなケンカのときでも、気付いた時にはケンカをする前と変わらないくらい、いろいろな話をしていた。不思議と、いつも同じ展開で、謝ったことなどない。それに比べ、失敗をした時はお互いに謝り、やがて笑い話となる。このような関係は、手の貸し借りをし合ったからこそ築けているのではないだろうか。
私にとって、祖母の手は「宝物」だ。なぜなら、祖母の手を見るだけで、貸し借りをし合ったことやケンカしたことなど、祖母との思い出がよみがえる、いわばアルバムのようなものであるからだ。
ある日、祖母が私の手を見て、「わ│、手の小さかこと。指の細さ。」と言ったのに対し、決して私の手は小さくなく、指も細くないので、「全然、小さくないし、友だちの方が細くて小さいよ。」と言うと、驚きながら「私たちの小さかころは、力仕事をしよったけんね。」と言って、手を見せられた。確かに、祖母の手は大きく、ゴツゴツとしていた。だが、私はそんな祖母の大きく、艶もハリもなく、たまに農薬の臭いがする年季の入った手が大好きだ。幼い頃にいつも繋いでいた手は、綺麗な手より温かい。
祖母は私が生まれた時から、ひたすら、お守りとなって温かい手で私の手を握り、エールを送り続けてくれたにも関わらず、面と向かって「ありがとう」と伝えられない。今まで本当にお世話になった祖母、これからもお世話になることが山程あるはずの祖母は、今年七十四歳を迎える。足腰が大分、弱ってきている。今後はますます弱っていくだろう。だから、私は、自分の成長を支えてくれる祖母の老後を支えたい。私が祖母の手から感じたものを私の手から祖母に感じてもらえるように、私は感謝の気持ちをぎっしりと詰め込んで祖母の手を握り、いつまでも歩いて行きたい。そして、今度は、私の手に今までとこれからの思い出でパンパンにし、私の手を少し年季を感じさせるものに出来たらと強く思う。
これらの思いを私の好きな音楽で表現することが出来る。現在は活動休止中の音楽グループ「いきものがかり」の「ありがとう」という曲と「歩いていこう」という曲の歌詞に、私の祖母に伝えたい言葉があり、それらを私なりに次のように組み合わせた。「傷ついても何度も信じたいよ この手をこの日々を 君と泣いて 君と笑って 僕は強くなれたんだろう”あいしてる“って伝えたくて あなたに伝えたくて かけがえのない手を あなたとのこれからを わたしは信じてるから ”ありがとう“って言葉を いまあなたに伝えるから 繋がれた右手は 誰よりも優しく 君がくれた言葉は ここにあるよ そうだよ 歩いていこう」
お婆ちゃん、ありがとう。これからも宜しく。お婆ちゃんの育てた野菜と果物は、最高ばい。お婆ちゃん、大好き。