2016年度 第52回 受賞作品
福岡県知事賞
色づく心
久留米市 田主丸中学校2年和仁 あやね
「将来の夢は何ですか。」
この問題にぶつかるたびにゆううつになる。保育園の頃は素直に
「チョコレート屋さんになる。」
と言っていた。小学生になってからは、デザイナーや習字の先生、看護師や美容師など、なりたい夢がたくさんできた。しかし、中学二年生の今、職場体験をしたり、人から経験や情報を聞けば聞くほど、夢はもやの中にかき消されてしまう。
「私は何になりたいの?」
「夢がないといけないの?」
自分に問いただしても答えはみつからない。なりたいものを見つけ、その夢に向かって一直線につき進もうとする友達。その友達を見てよけいに焦ってしまう。
そんなある日、いつも元気でほとんど病気にかからない私が熱におそわれた。体がだるく、声がかれ、寝込んでしまった。そんなときは決まって梅干しを入れた熱いお茶を母がつくってくれる。
「申年の梅は病気によく効くのよ。」
まじないを信じない私は、けげんそうな顔をしながら飲む。しばらくすると体の芯まで温まり、ぐっすりねむってしまった。
大好きな梅干しのおかげで次の日には、元気な私に戻っていた。
毎年梅雨の少し前になると、祖父母の家の古い梅の木によじのぼり、青梅を収穫する。今年の一月、梅のつぼみがふくらむころ、大雪が降り、梅は大丈夫かと心配した。数は少ないけれど、大粒の梅がかごいっぱいになった。
青梅を持ち帰り、竹ぐしでへたをとるのが姉と私の仕事である。虫食いや割れた梅はジャム用に。まっ青できれいな梅は、しょう油や酢味噌漬けに。そして、黄色がかった香りの良い梅は、梅干し用に分けていく。香りはおいしそうなのに、このまま食べるとお腹をこわすと聞き、姉と目を丸くした。
梅干しを作るには面倒臭い作業が山積みだ。次は、大きなかめに梅と塩を交互に入れていく。数日後、梅はしぼみ、梅酢が出ていた。幼い頃、がまんできず一粒つまんで食べたことがある。
「しょっぱ。」
その味はいつも食べているあの梅干しの味にはほど遠く、あの赤みもなく、まだしょっぱさも足りていなかった。
赤じその葉を姉と塩もみする。きっとまっ赤ですきとおるような汁が出てくるのだろうと考える私。そでをまくり上げ、シャンとしたその葉を力を込めて塩でもむ。赤い葉から出てきた汁は私の予想を大きくはずし、どす黒い汁が出てきた。その黒い汁とは「あく」なのだ。塩もみを二、三回くり返し、かたく絞ってあくを出す。梅と梅酢の入ったかめの中にもみしそを入れる。するとしそが梅酢と反応し、色鮮やかな赤色の梅酢になった。私はやっと赤い梅干しが食べられるのだと思い、次の日学校から帰ってかめに手をつっこんだ。しかし、いっこうに赤くなっていない。できそこないかとがっかりした。
一ヶ月ほどした梅雨があけた晴れた日、母に呼ばれた。そこには大きなざるとあのできそこないの梅があった。母に言われるがままに梅をざるの上に一粒ずつ並べていった。次の日、梅が日にあたった部分だけうっすらと赤くなっていた。満遍なく日があたるようにひっくり返し、三日三晩干した。夏の暑い光をあび、夜の静かで冷たい空気にさらされる。私たちの梅を真っ赤な太陽と白くうかび上がる月が交代で見守ってくれる。そんな大切な梅を赤じそと梅酢の中に戻した。数日後、できそこないだと思っていたあの梅が私の大好きな、真っ赤な梅色に染まっていた。
あのとき、病気の私が食べた梅干しは、実は十二年も前の申年に漬けたものだと聞かされた。自分が生まれたころに手間ひまかけて漬けた梅干しを今食べている。
「しょっぱ。」
思わず顔がしぼんだ。そしてこのしょっぱさの中には、母、祖母、曽祖母の手のぬくもりや優しさがぎゅっと詰まっているように感じた。
私は言ってみればまだまっ青の梅。丸くてつるつるカチカチの経験の浅い梅。体は大人に近づいていても心はまだ青くてかたい。こんな私が見つけた夢は「職業」ではない。私の夢は私を元気にしてくれるあの梅干しになることだと考えた。
私はこれから長い時間をかけ、少しずつ青梅から赤い梅に変わっていく。塩と青梅を交互に重ねるように、私はこれから何度もおこられ、成長する。そして、厳しさと優しさの入り混じった梅酢につかる。厳しさと優しさを吸収した私は、あくを出し、塩にもまれたしそに出会う。さらに三日三晩の暑さ冷たさにたえ、ほのかに色づく。そしてもう一度あの梅酢につかり時間をかけて真っ赤になる。時間と手間ひまをかけるからこそおいしくなるのだ。
今年もまた真っ赤でしょっぱい良い塩梅の梅干しができた。来年はどんな梅干しができるだろう。そして何十年後の私はどんな梅になっているのだろう。私の心もほんの少しだけ色づく予感がしてきた。