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「JA共済」小・中学生
作文コンクール

2022年度 第58回 受賞作品

福岡県知事賞

死を想う

北九州市立  熊西中学校1年矢野 壮哉

 「メメント・モリ」この言葉はラテン語で「死を想う」という意味である。
 先日、僕は九州国立博物館で行われていたポンペイ展に行った。そこで「メメント・モリ」というタイトルのモザイク天板に描かれていたドクロの絵を見た。僕は胸がざわざわして、そのタイトルの意味を母に尋ねた。母はにっこりと微笑みながら、「メメント・モリ」という思想を教えてくれた。中世ヨーロッパではこの言葉を書いた石をテーブルの上にいつも置いて、絶えず見ることを心掛けていたという。現代では主に「死を意識することで今を大切に生きることができる」という解釈で使われることが多いそうだ。僕はこのドクロの絵と母の微笑みが重なり合った。
 数年前、昨日まで元気だった母が突然、心臓の手術をすることになった。その日、母は風邪で受診した内科から心臓が大きくなっているという指摘を受け、心臓の専門医に診てもらうために受診した。その検査の途中、突如先生たちが集まりだし、看護師さんたちが母を取り囲んだ。母はもっと大きくて手術のできる病院へ救急車で搬送されることになった。一緒に病院についていった僕は、母と一緒に救急車に乗り込んだ。心配そうに見つめる僕に、母は「ごめんね。大丈夫だよ。」と言ってくれた。
 大きな病院についた途端、たくさんの検査がなされ、父が呼ばれ、母は心臓の手術をすることになった。病名は急性大動脈解離だった。急性の大動脈解離の中でも事態は深刻で、心臓の弁も壊れており、血管が裂けている範囲がとても広く、いつ亡くなってもおかしくない状況だった。そこで、人工弁と人工血管に取り換える手術をすることになった。急性大動脈解離の手術はとても難しく、状態が良くなかったので手術の途中で亡くなる可能性が高いことを知らされた。僕は、足元がふわふわして、現実ではないような、そんな感覚がしていた。昨日まで普通にごはんを食べて、笑いあってふざけていたのに、母がいきなり死ぬかもしれないなんて、僕には理解ができなかった。心臓がバクバクしてただただ怖かった。
 その日、僕と父は手術室の前の椅子で夜を明かした。手術は十時間を超えた。朝方、ようやく手術は終わり、母は一命を取り留めた。術後も気の抜けない日々だったが、次第に回復した。しかし、三十代半ばでの急性大動脈解離ということで、他の大学病院の手を借り、遺伝子検査をしてもらったところ、母は遺伝性の難病である家族性大動脈解離であることがわかった。この病気はあまり知られておらず、心臓の専門医ですらその存在を知らないくらいで、わからないことも多い。わかっているのは、遺伝子のタンパク質が変異を起こし全身の結合組織が弱くなって、高い確率で大動脈解離を起こすことだ。今回、幸いにも一命を取り留めたが、今後、他の大動脈が生涯無事である保証はない。さらに、今後何か病気をしても手術をすること自体が難しいらしい。現に親知らずの抜歯ですら、歯科大学病院や産業医科大学病院に「生命の危険がある」ということで断られている。
 母は今元気でも明日どうなるかわからない。僕は怖かった。母の具合が悪くなるたび、あの手術をした夜の気配が襲ってくる。僕はそのたびに母にしがみついた。母は僕をぎゅっと抱きしめ「大丈夫、大丈夫。」とくり返し言うのだった。
 母はいつも笑っている。そして人生にどん欲だ。旅行にもどんどん行くし、こうなった今でも毎日を楽しんでいる。怒るときも泣くときも全力で、遊ぶときも全身で人生を楽しもうとしているように見えた。そして、母は死をタブー視しない。自分のお葬式のことだとかを、今日の晩ご飯の話題のようなテンションで話す。また、亡くなった後の書類のことも、母がいなくても父が分かるように整理している。母にとって死は身近な友人のようにすら見える。
 僕は病気になって辛くなかったのか聞いたことがある。母は「病気になったことをうらむ時間がもったいない。同じ時間なら人生を楽しむ時間にあてたい。」と言った。僕は母がいつも笑顔でいる理由が少しわかった気がした。母の笑顔の裏にはいつも「メメント・モリ」があるのだ。
 人はいつかみんな死ぬ。生まれた瞬間から死に向かって進んでいくのだ。病を背負った母も、健康な僕も、いつかは誰の上にも平等に死は訪れる。それがいつかなんて誰にも分からない。だからこそ、いつ死んでも後悔しないように、今ある人生のひとつひとつを全力で楽しむのだ。嬉しいことも、面白いことも全力で人生を味わおうと思う。これから越えなければならないきついことだって、次々と襲いかかる人生の苦難すら楽しんで乗り越えてやると思った。そして、いつかその時がきたら、心から「楽しかった。ありがとう。」と言える人生を僕は送りたい。そして、いつか母との別れがきたとしても、お互い笑ってお互いの人生をほめたたえたいと心から思う。

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