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「JA共済」小・中学生
作文コンクール

2011年度 第47回 受賞作品

全共連福岡県本部長賞

人は人の「杖」

久留米市  久留米信愛女学院中学校2年重冨 菜々

 「人」という漢字は、人と人とが支え合ってできている、とよく言う。私も母からこの話を聞かされたことがあるけれど、今まで深く意味を考えたことはなかった。あの時、考えるきっかけをくれたのは、一冊の本と私の曾祖父だった。

 私の曾祖父は、もう百歳である。元気なのは元気でとても良いのだが、一つだけ、私が曾祖父に対して良く思っていなかった点があった。それは、「老いや認知症に起因する行動」である。

 ある年の元旦、私と家族は食事をしていた。元旦は、家族全員で一つのテーブルをかこみ、食事をするというのが我が家のきまりだ。お屠蘇を飲んだり、普段食べる事ができないおせち料理を食べたりして、楽しい時間を家族全員で過ごすのだ。

 そんな元旦の食事の時に曾祖父は、「わしは、何歳になったかのう。」と言った。私は耳が遠い曾祖父のために妹と声をそろえて、「もうすぐ百歳ですよ。」と教えてあげた。すると曾祖父は、そうか、と納得したようにうなずき、食事を再開した。

 しかし、五分もたたないうちに、また曾祖父からの質問が飛んできた。「わしは、何歳になったかのう。」先程と全く同じ質問だ。私は、さっきうなずいたものの聞き間違えたか理解できなかったのか、と自分なりに解釈し、もう一度教えてあげた。

 また数分後、同じ質問をされた。さすがに聞き間違いや理解できなかったわけではあるまいと思った。心のどこかで曾祖父にいらだち始める自分がいた。自分の年齢すら覚えられないのか、正直うっとうしいと思いはじめてしまったのだ。

 結局、その日、同じ質問を五、六回くり返された。四回五回六回と質問されるたび、曾祖父に対するいらだちは大きくなった。なんだか、せっかくの食事が台無しになったような気がした。

 私が嫌だと思う曾祖父の行動はこれだけではない。夜中に探し物をして物音で私や妹を起こす、下着を濡らしてしまう、自分の部屋が分からず、私の部屋に勝手に入ってくる、時間が分からないなど、数えあげたらきりがない。十四年近く一緒に生活してきたというのに、私の名前を忘れていることもあった。私の中では、年をとったんだからしょうがない、認知症だからしょうがないと分かっているけれど、やっばり行動の一つ一つにいらだってしまうというのが事実だった。

 曾祖父は、デイサービスのために老人ホームに週何度か通っている。ある日、曾祖父を家まで迎えに来た老人ホームのスタッフの方の姿を見た。スタッフの方は曾祖父の手をとり、曲がった背中に手をそえて補助し、優しく声をかけながら、車までうまく誘導していた。その時、私は、なぜ高齢者にそんなに優しく寄りそうことができるのか不思議に思った。私はスタッフの方と同じように高齢者と常に一緒に生活しているのでスタッフさんがどんなに苦労しているか想像がつく。同じ事を何度も聞かれたり、洗濯した衣服をすぐ汚されたり、大変な思いをしているだろう。なのになぜ輝くような笑顔で仕事ができるのか、私とは何が違うのか、疑問だった。

 ある日、学校の授業で私は『手紙』という本に出会った。私の疑問を解決し、曾祖父をはじめとする「人」に対しての考え方を変えてくれたのがこの本だった。この本は、一人の父親がもしも、自分が年老いて今までの自分と違っていたらと考え、子供たちに書いたものだ。私は、この本を読んで、まるで曾祖父を見て書いたようだと思った。本の中の年老いた父親がとる行動がそのまま曾祖父と重なるのだ。「あなたと話す時、同じ話を何度も何度も繰り返しても、その結果をどうかさえぎらずにうなずいて欲しい。あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末はいつも同じでも私の心を平和にしてくれた。」という箇所が印象深い。ここを読んだとき、私は、今、私が曾祖父にしていることは、私が幼い頃、曾祖父がしてくれたことなんだと気付いた。昔、私が今の曾祖父のような行動をとっても曾祖父は温かく見守ってくれていただろう。「あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように、私の人生の終わりに少しだけ付き添ってほしい。」という箇所からも心に訴えかけてくる何かが伝わってきた。きっと老人ホームのスタッフの方は、この言葉をきちんと理解しているのだと思う。そして、自分の醜いいらだつ気持ちよりも強い、温かく優しく透き通るように美しい心を持っているのだと思う。『手紙』という本と曾祖父のおかげで少し大人になれた気がした。人を支えるのは人であり、どんな人に対しても思いやりの気持ちを持つことが大切だ、と教えてくれたのだ。「人」という漢字は、人と人が支え合ってできている、と今なら確信を持って言える気がする。人が人の「杖」となっているのだ。私は、曾祖父の「杖」になりたい。

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